2022-07-05 メンタルとの対話2「本当の私がわからなくなる原因」 メンタルとの対話 ネガティブにとって、考える人というのは宿主しにくい存在です。「私はこう生きるんだ」というのは決意ではなく、考える人です。その思考はポジティブです。 「こう生きるんだ」というポジティブは、「諦めていない」と言えます。例えば貧困に生まれたとして「お金持ちになるんだ」というのは、「お金持ちになることを諦めていない」ということです。 諦めないことで、ネガティブは影響力を小さくします。諦めるとき、ネガティブは強化されます。ネガティブの生存本能にとって、これはやっかいなこと。 ポジティブであること。考えること。諦めないこと。 これに気づかせようとすることは、ウイルスにとっての熱と同じです。教育者・指導者・リーダー、または宗教家を含めて、「気づかせること」と「洗脳」の性質も理解するなら、ネガティブの敵です。 そういう意味で、考えない人はネガティブの友人になりやすい。さらに、考えることをしようともしないことや、考える力がないと信じていることは、ネガティブの友人である可能性があります。 ネガティブが存在できる歴史の背景には、「無知」があります。「恐怖」があっても、恐怖の正体を「知る」ことは、そこから脱出するチケットと同じです。 砂漠の砂嵐に神の怒りを見た人は、気象について学んだ途端、神を見なくなるかもしれません。ネガティブな理解が、知ることで変わることがあります。 「真実は毒なり」という、知ることがネガティブになる人もあります。神はいないと知ることが、ネガティブになる人もいます。 どちらも、「考えること」です。それは常に、影響力を低下させることやコントロールすることです。 1万回ネガティブになっても、考え直してポジティブになることができます。ポジティブであることを、諦めない人です。1万回ネガティブになる前に、3千回で諦める人もいます。もっと少ない人もいます。 「諦める」と、人から受ける影響に抵抗しなくなります。抵抗することは、現状を否定したいから抵抗するので、考えた結果です。抵抗しないことは、考えるのが面倒だということです。 その次に、「あなたはこうした方がいい」と考えた人の思考をインプットします。「考える」ことをしない隙間に、他人の考えが侵入する瞬間です。「隙間」という空間を埋めてくれたので、これを歓迎してしまいます。 ウイルスのように異物が混入しても気づかないと、知らないうちに他人に感染させてしまいます。もし感染経路がすぐわかって「あなた感染していますね」となれば、処置を施すことができます。 でも思考の感染はわかりにくいので、まさか自分自身が他人の思考を歓迎した存在だとは気づきません。すでに「私」ではなく、ハイブリッド存在です。少しのハイブリッドであれば「本当の私」はわかりますが、日常的にハイブリッドされると、もはや誰か分からなくなります。 宇宙は肉体ではなくメンタル次元で存在を見ます。「本当の私」と「ハイブリッドされた私」に誤差があればあるほど、宇宙は「誰かわからない」となります。願望実現の注文ミスのようなことが起きます。 自分自身の思考を他人の思考で埋めていくと、これは習慣になります。「習慣」はある日急にはじまったものではなく、種子のように発芽します。どこかで徐々に、そして受け入れ、疑わなかった先にあります。 「あれ、おかしいな」と気づかないので、ドッキリに似ています。死んでから気づけば、壮大なドッキリです。だから「考える人」というのは「気づく人」です。「気づく人」の最上級に「悟り」とか「覚醒」とか、その現象から外れるようになります。 信じている 勇気がある 希望がある 目標がある こうなってくると、原理的にネガティブへの理解はあっても、ネガティブはほとんど存在できません。もちろんその強度があります。言葉で言うのと、実行するのと、意識のかたちとして入るのと、それぞれ違います。 この4つを教えることは、ネガティブにとっては敵です。逆に、この4つを失わせるようなアドバイスや意見は、ネガティブにとっては好都合です。 倫理とは、正しさ。最終的には「正しさ」に戻りますが、このエネルギーはウイルスに対する熱と同じです。しかし「正しさ」を曖昧にするために、ネガティブはいくつもの経路をもっています。 例えば 食べ過ぎ…正しく考えることをさせない 計画や決意の欠如…目標のない結婚や勉強 無気力な仕事…お金を稼ぐだけの仕事 散財…欲望に任せてお金を使い果たす よくない環境…改善を諦めさせる ネガティブなニュース…無関心にさせる 共通しているのは、明確さがないことです。食べ放題で時間制限いっぱい食べるよりも、ただ食べ過ぎることは、習慣そのものです。 習慣には、「明確な習慣」と「流される習慣」があります。前者がポジティブ、後者がネガティブに由来した習慣です。明確な習慣は、終わることができます。流される習慣は、終わりにするのが難しい。 「終わりにするのが難しい」というのは、すでに本人のコントロール下にありません。対象物として観察することはできても、それがとても変えがたいように見えます。