裸の王様

体外離脱で学んだ、失敗や挫折から抜け出す異次元情報ブログ。

メンタルとの対話5「奇跡を起こしたイエスの思考」

「我思う故に我あり」は、存在の順序としては「我あり故に我思う」です。「私」という存在が存在していることは、宇宙の基本原理です。

 

また、この否定もできますが、そうなるとすべての根底が覆されます。だからここは、固定すべき基本です。生死関係なく、「私」という現象はずっと続きます。

 

そういう意味では、皮肉のようでもあります。「我思う故に我あり」は、「考えない人」「流される人」へのメッセージのようでもあります。会社のミーティングで「発言しない人はいないのと同じ」と言われることも、同じです。

 

世の中にある組織で「会社」は、思考の力を集結した連合体です。もちろん役職によってその質や量は違います。でも「家族」は、愛の力を基盤としています。

 

会社と家族の違いは、例えば成果とよばれる明確な目標がなくても存在できるかそうでないか、です。会社は、生態系の中でも「成果」がないと存在できません。でも家族は、成果が求められません。あってもいいですが、なくても存在できるのです。

 

 

 

でも「ただ存在する」のと「存在感をもって存在する」のは違います。存在感とは、影響力です。

 

ネガティブを優位にしてメンタルを満たすことは、「考える」ことを諦めることや、「流される習慣」を手にすることとほとんど同じです。裏付けには、恐怖心があります。

 

このリズムが「ただ存在する」原因となります。「死んではいるが、存在している」があるならば、「生きてはいるが、存在していない」もあります。リズムが、生態系とシンクロしてしまうのです。

 

生態系とシンクロすると、「自然」みたいになります。自然を眺めるときに印象的な木や葉っぱがないことと似ています。また、それを否定しようともしないはずです。「あの木が、もっとこうだったらいいな」とは思いません。だから自然は「自然」です。ただ「在る」だけです。

 

人間が思考のもつ力を使うとき、明らかに「自然」ではありません。「思考する」という行為は人工的です。

 

でも「考えない人」となると、それは「自然」のようになります。つまり流される習慣を身につけ、そのリズムが完成形になると、最後は「自然」のようになります。

 

仕事などでは「ボーッとしている」と叱られるのは、自然なままでは成果が上がらないからです。自ら考える動くことが求められます。それが高度になればなるほど、難しい仕事と言われます。

 

影響力のある人は、必ず思考の力を使っています。「あの人、簡単そうにやっているから自分にもできる」と高を括って失敗することがあります。思考の力が、見えなかったときです。

 

 

 

思考の力を使う人は、ネガティブをコントロールします。だからポジティブと呼ばれる人が多くなります。

 

思考の力を高めていくと、例えば「悟り」とか「覚醒」という現象が起きます。宗教的な言葉を使わなければ「発見」とか「気づき」ですが、その比較級や最上級があります。

 

「悟る」というのは、思考の力を使い続けて森羅万象の現象が貫通して理解できるような意味合いがあります。どの現象も同じ現象に見えることで、「すべてはひとつである」という極論にたどり着きます。

 

何かの修行をして悟ったり、大きな失敗をして悟ったり、また悟りで得た情報に正解はありません。理由は「真実」との距離の違いがあるだけだからです。ただあるのは、「そういうことか」という衝撃的な気づきです。「考える人」は、その繰り返しを続けていくので、毎日のように悟りを開くことになります。

 

「覚醒する」とは「目を開く」から来ていますが、逆に言えばほとんどの人は目を閉じているという皮肉です。肉眼の目は開いているのに、何かが見えていない。目だけでは見えないものがあるという示唆があります。

 

宇宙が隠した秘密を「次元」と言うならば、それは目には見えていないだけです。もちろん、他のことでも。「目」というのは恐ろしいほど、真実を見せません。「真実」が100万回も光で反射した結果を見させられるので、これもまたドッキリみたいになります。

 

霊能者が目には見えない存在と対話することは、肉眼の視力ではありません。対比して心の視力があります。それが「思考の力」です。

 

 

 

「学ぶ」という言葉があります。「学び」とも言います。学ぶことの大切さは説明も必要ないくらいだと思いますが、意外に「学ぶ」ための学び方は大切にされていません。

 

そうなると「学んでいる」という、常にプロセスを体験することになります。それはその学びを「知っている」とは言えず「信じている」に近いです。「知っている」のは心で、「信じている」のは頭です。

 

「信じている」から「知っている」への移行は大切です。「私には無限の可能性がある」と信じることと、そう知っていることは違います。イエスで言えば「豊かさが無限に存在している」ことを信じていたわけではなく、知っていたというような意味です。奇跡を起こした思考です。

 

本当に人に無限の可能性があったら、望むものを無限に手に入れることが可能となります。「それは不可能だ」と言いたくなりますが、そう本当に知っている人が現れたら、それは大きな影響力をもつことになるはずです。

 

すべて、思考の力です。