裸の王様

体外離脱で学んだ、失敗と挫折から抜け出す異次元ブログ。

メンタルとの対話12「知恵とは何か」

「思考」が時空間に保存されるなら、人間はより自由に取り出すことができる存在へと進化していきます。「存在」する以上は、進化のうねりの中で後戻りできないようになっています。

 

例えば「チャネリング」は思考のコミュニケーションです。「チャネリングする」という思考習慣があれば、それはいずれ「チャネラー」へと導きます。理由は「時間」が存在するからです。

 

「時間」は「チャネリングする」という思考を「チャネラー」へと転換します。ポジティブな(能動的な)思考は、時間によって物質化します。分断された「チャネリングする」という思考ですらも、時間とともに連続した「チャネラー」をつくります。

 

「知識」が「知恵」となるにも、時間が必要な理由がここにあります。「知識」は3秒で得ることができても、「知恵」となるには時間の経過が必要です。「知識」を得た後で、ポジティブで在ることをしないと、知恵はもたらされません。知恵は、知識の果実です。

 

「時間」は凝固剤のような働きをもっています。同じ「知識」を身につけた2人がいた場合にも、ポジティブに「知恵」へと生まれ変わらせた人間がそれを使うように、知識である人間も知識として持ち続けます。このポジションは、凝固剤に固定されるほどに強力な二極化です。

 

 

 

「知恵」を得ることは、宇宙の法則と自分自身との関係性を発見することです。「つながり」が見えるようになることです。そして、それを実際に使うことのできる思考力のことです。

 

ニュートンが、木からりんごが落ちる様子を見て万有引力を発見したと言われています。この偉大さは、「りんごが落ちる」という現象を宇宙の法則にまで貫通させたことです。しかし同じようなことは、至るところで起きています。「りんごが落ちる」くらいの些細な現象から宇宙の法則がわかるなら、同じような真理は日々の生活の中に数えきれないくらい起きています。

 

大前提として、ニュートンは万有引力とされるような「力」を探していました。知恵は、知恵を求める者に与えられるということです。りんごはこれまで何度も落ちていたはずですし、それを凝視しても現象は現象のままで終わった人もいます。

 

「経験者は語る」で多いのは、失敗や挫折を経験した人です。その前に知識があっても、失敗や挫折をしないと、その知識を使わない(知恵にまで昇華しない)ことがあります。

 

実は「知恵」を得るには事前の準備が必要です。特に、絶望と呼ばれるような極限状態で、知恵が与えられるということがあります。理由は単純に「知恵への渇望」で、それなしでは生きていけないという強い欲求と感情が、それを物理化するということです。

 

 

 

環境も人間関係も、知識でつくることは難しいはずです。「生態系」のように調和が必要なものに対して、知識は無力である場合が多いです。しかし知恵を使うことで、人間は、環境も人間関係も自らつくりだすことができます。それは、知恵によって環境や人間関係を超えることができるということです。

 

これらの影響力を低下させることは、支配することにもつながります。しかし、相対的に自分自身の存在が意識的に大きく見えるようになることから、「調子に乗る」ということがおきます。警戒心を怠らないことの大切さは、ここにあります。

 

知恵を身につけてなお、常に警戒は必要です。警戒を怠ったが故に、一晩にして失敗をするということはあります。また、警戒は常に環境や人間関係からやって来るので、この2つに警戒することはとても有効です。

 

宇宙は、宇宙の法則に則らないことに対して、厳しく罰を与えます。実際は「罰」ではなく単なる物理現象ですが、人間が成功や自由を追うならばそれは罰のようです。

 

 

 

失敗や挫折という代償を支払うことで、人生を変える人はいます。しかしその代償の大きさから、人生とはうまくいかないものだと「悟る」人もいます。破壊されたリズムに気づかず、再度古いリズムを刻み、人生訓とする人がいます。

 

いくら絶望という人生の大学院で学ぶことの大きさがあっても、積極的にそこへ向かう人はいません。しかしなぜか辿り着いたなら、もう学ぶしかないのです。「ここで学びたくない」とすれば、自動的に卒業するシステムもありません。

 

しかし、学ぶ意義はとても大きいです。

 

自問自答のような日々から、メンタルにはポジティブとネガティブという2つの存在がいることに気づく人もいます。かたちを変えれば、それが高次元の存在と感じられたり、ネガティブに傾けば悪魔の囁きに聞こえる人もいます。

 

その存在たちとの対話とは、「取引」です。コミュニケーションではなく、どの習慣や信念を売買するかの取引です。数々の取引が存在する意味は唯一、「なりたい自分になる」か「在りたい自分で在る」ためにのみ存在すべきです。