裸の王様

体外離脱で学んだ、失敗と挫折から抜け出す異次元ブログ。

メンタルとの対話9「不幸が生む罪の意識を克服する」

明確に生きるにせよ、流されて生きるにせよ、人間は自分自身に対して幸せであろうとする義務があります。「幸せだ」となるとき、そう見えない現象は意味をなさなくなる強力さがあるからです。

 

人に幸せを与えることで自分自身が幸せになる、という考えもあります。ただ、自分自身も「人」です。一番身近な人に幸せを与えることは、自分自身を幸せにすることです。また、これが「義務」であるのは、幸せであることに明確でないと、すべての基準がなくなるからです。

 

「幸せ」である場合、森羅万象の法則はすべて明確に作用します。そうでない場合も作用という力学から離れることはないですが、表面的には「作用していない」という作用が起きます。「与えたものが返ってくる」の「返ってくる」ものが曖昧や不明確であるのは、その前に「何を欲しいのか」が分からないからです。

 

「何を欲しいのか」が明確である場合も、それが売り切れている場合には、他のものが与えられます。宇宙は「豊か」である以上は無限に豊かさは享受できますが、それは欲しいもの以外にも受け取ることができるくらい豊かであると言えます。

 

宇宙がもし「貧しさ」の中にあれば、実は「欲しいもの」しか与えられません。しかし宇宙はそれ以外を与えようとするくらい、豊かさに溢れています。「欲しいもの」の明確さが足りなければ、それを表現するように、「少し欲しいもの」や「本当に欲しくないもの」まで幅広く受け取ることになります。

 

 

 

「欲しいもの」と「欲しくないもの」は、常にお互いのバランスで宇宙に存在します。「欲しくないもの」があって「欲しいもの」を認識します。どちらも同じくらいの重要性があり、そのいずれも選択によって得ることができます。「欲しいもの」しか手に入らない宇宙は、貧しい。「引き寄せの法則」でどちらを得るかには、思考の力を使う必要があります。

 

ただそれでも、なぜか「欲しくないもの」ばかり引き寄せるということがあります。多くの場合、「欲しいもの」を手に入れる方法は考えさせず、「欲しいもの」を手に入れる知識や論理ばかりを教え込まれるからです。いつまで経っても、「欲しいもの」は「欲しいもの」のままになります。だから「欲しい」と言うという矛盾もあります。

 

知識や論理をどう生活に応用すれば、より欲しいものが手に入るのかという重要な問題について、考える人が少ないです。公式や原理原則はただそれだけであって、欲しいものを手に入れる方法は一切書かれていません。

 

欲しいものを手に入れることができないと、人は「不幸」であると思い込みます。もちろん、物理的に欲しいものを手にしていなくても、精神的に手にすることもあります。「不幸」そのものはただの定義で存在しないですが、「不幸である」という意識が存在します。

 

「私は不幸だ」と決定したとき、人は罪の意識を持ちます。家族に迷惑をかけた、会社のお荷物になる、社会で存在していいのだろうか…不幸は罪の意識です。2つの問題としては、そこから脱出する「知恵」がないことと、その意識がつくる「恐怖」が払えなくなることです。

 

しかし一旦、不幸となった場合にも、明確に目標を持って生きる人は、その無知や恐怖すら克服します。「明確さ」とは、強い信念です。強い信念とそれをコントロールするメンタルがあれば、それは不幸からの脱出を意味しています。「不幸」は意識である以上、明確にメンタルをコントロール人にとっては、その時点で「不幸」との距離や隙間が空くので、概念として無力化されるのは時間の問題だからです。

 

 

 

「明確に生きる」というのは、決意ではありません。「在り方」です。「不幸」と距離をつくり明確に生きるには、自制心が必要になります。例えば

 

  1. 食欲…必要以上に食べ物を与えることは、自制心のコントロールが効かなくなることを意味します。
  2. 性欲…性衝動のままに生きると、人は流される習慣を身につけることになります。
  3. うわべだけのコミュニケーション…事実と妄想を区別なくうわべの会話をすることで、自分で自分のコントロールが難しくなります。

 

など、「コントロール下にない」という現象が自制心をなくさせます。逆に、こういったことをコントロール下に置いて生きることは、エネルギー漏れがない在り方をつくります。常に充電されたその人です。

 

まさに「存在感をもって生きている」わけなので、引き寄せの法則は力強く作用することになります。大自然の大いなる力を存分に借りたこの現象は、「明確に生きる」という思考の持つ力を表現した結果になります。